高柳健次郎について
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【 高柳健次郎が世界で初めてブラウン管による電子表示に成功 】
高柳健次郎博士は、電子式テレビジョンの実現を目指して研究し、1926年12月25日に世界で初めてブラウン管を用いて電子映像表示に成功した。
当時、イギリスでは、1925年にベアードが送受信ともニポーの回転円板を用る機械式テレビジョンの実験に成功、翌年には機械式テレビジョンの公開実験を行っていた。 他方、米国、欧州各国などでもテレビジョンの実現に向けた様々な試みが行われていた。
高柳は、機械式では精細な画像表示ができないと判断して、映像を電子的に撮像・表示する電子式テレビジョン技術の開拓に挑戦し、浜松高等工業学校で研究を進めた。1924年12月に電子表示のために独自に開拓した熱陰極ブラウン管の試作を芝浦電気(株)(現東芝)に依頼した。撮像はニポーの円盤で画像を走査し、高速電子回路を開拓して電子映像を作った。1926年12月25日、雲母板上に書いた「イ」の字を、世界で初めてブラウン管上に電子的に表示することに成功した。時あたかも大正天皇が崩御され、その号外新聞発刊の鈴の音を聞きながらであった。こうして、世界初の電子式テレビジョン受像器を実現、それはまた、世界初の電子映像表示装置(ディスプレイ)の達成であった。高柳は1927年には真空管式の撮像管の特許出願を行うなど、その後は電子式テレビジョン放送の実現・発展に貢献した。
他方、アメリカでは、1927年、フィロ・フランスワースが電子式テレビジョンの特許を申請し、1933年にツボルキンがアイコノスコープ(撮像管)を発明し、受像には高柳が達成したブラウン管方式が用いられて、電子式テレビジョンが開拓されていった。
現在、高柳が開拓した電子映像ディスプレイは、テレビジョンの映像表示のみならず、電子機器の発展につれて「人間と機械の対話装置」へと発展し、パソコンやスマートフォンなどの情報通信端末のキーテクノロジーに進化し、現在の情報通信技術社会の発展を支えている。
撮像装置と高柳健次郎博士(左2人目)と恩師中村幸之助校長(左1人目)
1899年(明治32)年 | 静岡県浜名郡和田村(現浜松市)に生まれる | ||
1921年(大正10)年 | 東京高等工業学校(現東京工業大学)附設工業教員養成所卒業 神奈川県立工業学校教諭 |
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1923年(大正12)年 | 横浜の洋書店でフランスの科学雑誌に描かれたテレビジョンの未来図的なボンチ絵を見て、テレビジョン研究を決意する | ||
1924年(大正13)年 | 郷里に新設された浜松高等工業学校(現静岡大学工学部)にテレビジョン研究の場を求め助教授として赴任 テレビジョンの本格的研究に着手 | ||
1926年(昭和元年)年 | 世界初のブラウン管式受像装置で「イ」の字の受像に成功 | ||
1928年(昭和 3)年 | 送像に二ポー円板、受像にブラウン管を使用し、人間の顔の電送に成功(走査線40本) 正式に電気学会に発表し、東京電機大学にて公開実験を行う | ||
1930年(昭和 5年)年 | テレビジョンの実験を天覧に供す 教授に昇格 これを機に、テレビジョン研究施設の設立、研究費の飛躍的な増額、研究員の大幅増員によりチームによる研究組織が作られた | ||
1931年(昭和 6)年 | NHK委託研究の形で協力~1937年(昭和12年) | ||
1934年(昭和 9)年 | アイコノスコープ型撮像管を開発 |
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1935年(昭和10)年 | 試作に成功したアイコノスコープカメラを使用し、全電子式テレビジョンを完成(走査線240本) | ||
1937年(昭和12)年 | NHK技術研究所テレビジョン担当部長として出向 東京オリンピックを目指してテレビジョンの放送実現に取組む
浜松電子工学奨励会を設立 理事長 |
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1939年(昭和14)年 | NHK技術研究所でテレビジョン実験局を完成 初めてテレビ電波を出し新築の放送会館(千代田)で公開受像 三越デパートでテレビ受像一般公開 初の国産受像機を完成 |
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1940年(昭和15)年 | 開催予定の東京オリンピック大会中止 |
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1941年(昭和16)年 | NHKからの実験放送が戦争拡大のため中止される | ||
1943年(昭和18)年 | 海軍技師を兼務 戦時中は電波兵器及び暗視装置の研究に従事 |
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1946年(昭和21)年 | 終戦後、NHKに復職するも、GHQよりテレビ研究の全面禁止と公職追放のためNHKを退職 日本ビクター株式会社入社 顧問・テレビジョン研究部長 テレビジョン同好会を結成(委員長) 1950年テレビジョン学会(現映像情報メディア学会)と改称(初代会長) |
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1948年(昭和23)年 | 日本映画技術協会(現日本映画テレビ技術協会)理事長 | ||
1949年(昭和24)年 | 浜松工業専門学校(前浜松高等工業学校)教授辞職 無線機械工業会(現JEITA・電子情報技術産業協会)ラジオ・テレビ技術合同委員会委員長~1959年(昭和34年) |
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1950年(昭和25)年 | 郵政省 日科技連テレビジョン標準方式調査委員会委員 郵政省 電波技術協会理事~1974年(昭和49年)わが国の標準方式制定に参画、また受像管の国産化への道を拓くなど、テレビジョンの実用化に貢献した |
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1951年(昭和26)年 | 通産省 工業生産技術審議会委員~1955年(昭和30年) | ||
1953年(昭和28)年 | 日本最初のテレビ本放送開始 | ||
1955年(昭和30)年 | 郵政省 電波技術審議会委員~1966年(昭和41年) | ||
1960年(昭和35)年 | カラーテレビ本放送開始 | ||
1974年(昭和49)年 | 科学放送振興協会 理事長 | ||
1979年(昭和54)年 | 日本ビクター株式会社退職 副社長、技術最高顧問を歴任 | ||
1984年(昭和59)年 | 財団法人 高柳記念電子科学技術振興財団を設立 理事長 | ||
1990年(平成 2)年 | 7月逝去 享年91歳 同月従三位に叙せられる |
・私の履歴書((株)日本経済新聞社)
1982年(昭和57年)2月3日~3月4日に掲載
4.38MB
※(株)日本経済新聞社の許諾を得て掲載
・イロハのイ テレビ事始(浜松市博物館)
2006年(平成18年)12月16日発行
7.35MB
※浜松市博物館の許諾を得て掲載
・テレビ事始((株)有斐閣)
1986年(昭和61年)1月20日発行
※(株)有斐閣の許諾を得て掲載、(株)有斐閣ホームページより書籍購入できます >
1931年(昭和 6)年 | 帝国発明協会 第1回恩賜発明奨励金 | ||
1933年(昭和 8)年 | 帝国発明協会 第3回帝国発明進歩賞 | ||
1952年(昭和27)年 | 日本放送協会 放送文化賞 | ||
1955年(昭和30)年 | 紫綬褒章 | ||
1961年(昭和36)年 | ITU第1回世界テレビジョン祭典で功労者表彰 | ||
1968年(昭和43)年 | 逓信協会 前島賞 | ||
1969年(昭和44)年 | 勲三等瑞宝章 | ||
1974年(昭和49)年 | 勲二等瑞宝章 | ||
1980年(昭和55)年 | 文化功労者 | ||
1981年(昭和56)年 | 文化勲章 | ||
1987年(昭和62)年 | 米国アラバマ州立大学 名誉教授 浜松市名誉市民 |
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1988年(昭和63)年 | 米国SMPTE名誉会員(日本人初) |
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1989年(平成元年)年 | 勲一等瑞宝章 |
昭和 3年(1928) 7月 | 特許第七七二九三號 陰極線波形管用鋸歯狀波形電壓ヲ得ル裝置 |
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昭和 3年(1928)12月 | 特許第七九四八八號 送像所ニ機械的ノ像ノ分解器ヲ用ヒ受像所ニ「ブラウン」管ヲ使用スル遠視方式 |
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昭和 6年(1931) 3月 | 特許第九〇五九三號 「テレヴヰジョン」用「ブラウン」管 |
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昭和 6年(1931)11月 | 特許第九三四六五號 積分法ヲ利用セル「テレビジョン」送像器 |
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昭和 7年(1932)10月 | 特許第九七七七七號 光電管送像器ノ改良 |
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昭和 8年(1933) 3月 | 特許第一〇〇〇三七號 「テレビジョン」用電路開閉裝置 |
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昭和 8年(1933)12月 | 特許第一〇四一二〇號 「テレビジョン」用光電流增幅器 |
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昭和 9年(1934)1月 | 特許第一〇四五六九號 積分法「テレビジョン」送像裝置ノ改良 |
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昭和12年(1937) 1月 | 特許第一一八九八〇號 管内ニ電極ヲ封入スル方法 |
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昭和12年(1937) 7月 | 特許第一二〇九四三號 飛越走査用同期信號發生裝置 |
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昭和24年(1949)12月 | 特許177935 電子又はイオンの加速方式 |
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昭和38年(1963)11月 | 特許 昭38-23712 磁気記録再生方式 |
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昭和42年(1967) 5月 | 特許 昭42-9624 磁気記録再生方式 |
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実用新案 | |||
昭和12年(1933)10月 | 實用新案第一五〇一六號 飛越走査ノ同期信號發生裝置 |
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外部団体様がYouTubeで公開している、高柳健次郎に関する動画です。
1.「テレビの生みの親 高柳健次郎」公開:NPO法人科学映像館